朝の散歩の帰り道、某コンビニエンスストアで見つけた本。
……今の自分には大変胸に刺さるタイトルだったので、思わず買ってしまった。
結構良いページ数と装丁だったのに、お値段はワンコイン500円。
タイトル的に取り上げるかどうかはちょっと悩ましかったんだけど、
最近これという小説も読んでないし、一応、学ばせて貰った恩義もある本なので。
テーマをぶれさせない為なのか、この方自身の論説なのか、
終始、家庭環境のみに理由があるとしている部分については、正直なところ疑問が残った。
ただ、内容自体には納得の行く部分も多くあったし、
結論的にはこれで500円ならかなりお得だったんじゃないだろうか、という感じ。
他の本と組み合わせて学んで行く内の一つとして取り込むには良いかもしれない。
内容自体、かなり限定的なテーマだし。
「私たち」という概念。
「私たち」は、「私」と「私」が寄り合っていること。1+1、時によっては2。
集団というこの概念、私にとってはこう捉えるのが自然なものだった。
自分とは違う人格の相手を、まったく同じ枠の中に居るように錯覚することには抵抗があるし、
こうした気持ちが依存心に変化してしまうこともまた、非常に怖くもある。
ただ、人を傷付けることや癒すことの差は、この「私たち」という連帯感の捉え方にあるような気がする。
誰かに前向きな期待を抱くことや、肯定すること。
好意は、相手と関わることへの期待から生まれてくるものだと思う。
好意を抱くということは、要するに相手の個性に価値を見出すことで、
その価値を見失ったり、リスクが価値を上回った時にはそっと薄れていくものでもある。
人と繋がり合う最初の切っ掛けには、期待という好意がある。
その上で、依存と愛情の違いは何処にあるのだろうな、ということを、割りとよく考えたりする。
仕事柄でもあるし、私自身の性格上の問題でもあるんだろう。
恋愛の傾向にはエロスやマニア、ストロゲーやルーダスなどと言った複数のタイプがあるというし、
相性の良い相手同士のカップルが、かなり線を割り込んだ関係であっても
仲睦まじく居たりする様子も見るに……尚のこと、こういうのは一概では無いのだろうけど。
ただ、人を傷つける連帯感の根元は要求にあり、人を癒す連帯感の根元は許しにある。
この辺りが多分、依存と愛情を割る要素の一つになるんじゃないだろうか。
本の中に、健康的な摩擦、というキーワードがあった。
お互いの主張が不意にぶつかった時、それを正直にぶつけ合うこと。自己主張の際。
「私たち」と「私と私」の差は曖昧なようであって、こういう時に大きく影響を分けてくる。
これが「私と私」の関係であれば、「私」と「私」は個人に戻る。
だから摩擦が起きた途端に、意見の違いが相手からの攻撃なのだと感じられるようになる。
言葉を戦わせることが、相手と利益を取り合う対立に思えるのだから、
その闘争には当然負けたくない。負ければ傷が付くし、摩擦自体が自己否定のように見えてくる。
一方で、この間柄を「私たち」というものに捉えているとすれば。
相手に深く傷つけられる必要も、傷付ける必要も、おそらく頭の中には出てこない。
「私たち」は同じ領土に属しているのだから、たとえ摩擦が起きたところで、
自分が傷付くことは相手にとっての不利益になると信じられるし、
事実、相手が傷付くことも自分にとっての痛手になる。
(相手に嫌われるのが不快だ、という利害ではなく)
意見を違えることが痛みにならない、傷を作る必要性を感じないぶつかり合い。これが健康的な摩擦。
集団としてどちらの繋がりが強いかと言えば、やっぱりそれは後者の関係性だ。
人に期待を持たない、という心の動きは不自然なものになる。
逆に、自分に期待を持っていない相手に愛着を持つことも好意を持つことも、難しい。
だから期待は悪いことではないし、人間関係には寧ろ必要なものなんだと感じる。
ただ、本書で言われていることは、自信を育てる上での出発点……というより、
もっと正確に言えば、強い自信を必要としないコミュニケーション、ということになるんだろう。
自分が正直になるのを許すこと、相手の正直さを同じように許すこと。
こう居られるのなら確かに、初めから自信なんて失いようがない気がしてくる。
課題は寧ろ増えたような心地ではあるけど、最近を振り返って納得することも多かったし、
お陰で、自分の少しずつ治していかないといけない部分も多少自覚させて貰えた本だった。
ぶっちゃければまだまだ怖いし、覗くには大層苦痛が伴う部分ではある。
ただ、知識は薬だなと感じるし、人と関わることも、やっぱり毒より薬になることが多いはずなので。
ちょっとずつまた、変えていければいいなと思う。こういう部分。
昔、確か二人くらいにお勧めを受けていたような気がするお話。
なんというかもう、私は関根君みたいなフレーム外に立ったキャラが大好きなので、
彼が主役格というだけで充分楽しめてしまいました……。
兄弟関係の系譜とか、歴史のある大きな日本家屋に住んでるとか、
フラットで洗練された性格にそぐわない古風なキャラ造形がどうにも美味しい。
そんな個人的趣向とギャップ萌えはともかくとして。
物語を楽しむ第一条件は主要人物に悪い意味でのアクが無いことなんだと
しみじみ感じる「良い雰囲気」がとても飲み込み易かったです。
もちろん、話の主体にあるのはあくまでホラーテイストの空気だし、
人が持つマイナス感情だって描かれていない訳ではないのだけど、
この作家さんはとにかく粘着感のない書き方をなさるので、苦味無くスルスルと行けてしまう。
多少出来過ぎのキャラが多かった気はするけど、その辺踏まえての進学校設定なのかな。
それはさて置き。ホラーっぽい設定にやや身構えていたものの。
主要人物がリアリストであり、また作家さん自身のさらりとした語り口のせいか、
物語全体を包むのは通り雨のようなほのかな薄暗さでしかないので、
怖い話が苦手な私でも案外大丈夫でした。
あと、ささいな日常描写になつかし回路を刺激されることも結構多かったです。
お話から映像を思い浮かべにくい私でも、珍しく光景を想像しながら読めたくらい。
消化不良かな、とも感じるあえて放り出された気がする疑問の幾つかについては、
あのオチでは伏線を回収しきることは出来なかったのだろうし、
主人公は関根君たちではなく「高校生」という世界そのものの方だったのかなとも、少し。
そう考えると、卒業を迎えた時点であのキャラたちの内面やその後は
もうカメラのピントから逸れてしまったんだろうなーという納得感はあるので、
明快ささえ求めなければ結構楽しめたお話でした。
通り過ぎた謎は解けないままというあたりの生っぽさが、良い薄暗さを醸してるような気もしたし。
あの子たちが自分らしく生きていける時間は主役を降りたこの先からになるんだろうなと、
先を見られない純粋な物寂しさはそんな理屈で宥めつつ、ひとまず読了。
辻村深月さんの本は良いな。
一度ページが走り出すと止まらない勢いと読み易さがある。
そんな訳で、前々から積読状態だった文庫本を一気に読了。
読むのは二作目なんだけど、辻村さんは本当に勇ましい作家さんだなあ。
人が目を背けたくなる部分を主題に持ってきて、
安易に答えを出させないまま、とことんそれに向き合わせる。
しかもその中心に立っているのが小さな子ども〈主人公)なんだから、
いやがおうにも目を背けられない、って言うね……。
けして狙った訳ではなかったんだけど、前に続いてまたも罪と罰という言葉がちらつく話。
ただ、こちらの主題はもっと大枠なで、復讐や贖罪も一つの答えとして含めつつ、
世の中に確かに存在する「悪意」に自分ならどう向き合うか、という感じだろうか。
自分の友人を傷つけ、それでも世間のつくりからは罰されない、そして反省を抱くことも無い人物。
もし、そう出来る力を自分だけが持っているなら、どんな罰を与えるのか?
そんなよくある仮定を、この主人公の場合は現実の選択肢として与えられることになる。
誤魔化さずに悪意を見詰めること。
そして、自分自身の答えを見つけ出すこと。
全編を通して語られていたのは、主にこの二つのテーマだったように思う。
「ぼくには、本当に『声』の力があるんですか」(P.325)
主人公の声には、人を動かす特別な力がある。
たった一回限りではあるものの、自分の言葉で絶対に人を動かすことが出来る能力。
もしこの主人公と同じ、自分の言葉で何かを成すという力を私たちが持っていたとしたら。
私たちもやっぱり主人公と同じように言葉に迷い、したい事を成すために知恵を働かせるはずだ。
ただし「言葉が力を持つ」という主人公の力にも、大きな制約がある。
主人公の「声」は、人に何でも言うことを聞かせる万能の力ではなく、
相手にとって意味のある指示でなければ不発に終わってしまうという条件がついている。
他人の価値観を汲まなければ、力を持っていても目的を遂げることは出来ない。
これは結局のところ、現実に使う言葉や行動も変わらない。
人が動かされる場合、それは言葉そのものにではなく、その中に価値観に触れる何かがあるからだ。
言葉が届かないことは多々ある。
それでも、当たり前に吐き出された言葉が何度も主人公を傷付けたり、または救ったように、
現実の中でも言葉が人に強く寄り添うことがある。
この作家さんはおそらく、人の言葉には力があるものだと信じている。
だからこそ「自分に力があるなら」と錯覚した上ででも考えてみて欲しい、
いつかぶつかるかもしれない悪意や理不尽に対する言葉を研いでおいて欲しい、と、
この話自体が、そんな仕掛け方で導かれている物語のような気がしてならない。
住み分けの意識とも少し違う、なんとなく諦念に近いような心地と言うべきか、
いつからか、私自身、自分の言葉を何処かで小石のように思ってしまっていた節がある。
受け取られなくて当たり前、届くのは受け取ってくれる好意というラインがあるからだ、と。
そんなラインが敷かれる筈もない悪意に対してどう向き合えば良いのか。
けして縁遠い問題ではない筈なのに、想像するだけで気鬱になる。
私と同様ではないにしても、そんな消却的選択に逃げ込みたくなってしまう人間にとっては、
単純に目の前の物に向き合う子どもの目線も(主人公の視点)、
自分はそこで何をしたいのかという立場の選択も(大人たちの例示)、
現実には存在しない特別な力に隠された、「言葉」の持つ力も。
それがけして特別な何かではないということと、自分自身、
あるいは自分の大事なものの前にやってくるかもしれない物への沿線を丁寧に敷いて、
嫌なものを見る力を少しだけ分け与えてくれる。
主人公の能力は、必ず言葉が人に届くという「もしも」の約束に過ぎない。
言葉には力がある。主人公と主人公を介した読者には、悪意と対抗するための力がある。
そんな前提の一方で、この力は、それでもなお動かせない世界があることを描く装置にもなっている。
「その常識の無い煙草の吸い方をしていたのが僕。感情的にそれを罵る女の人、という図です。
あなたの立場は、僕と一緒にお店に行ったもう一人の女の子だと考えてください」
「先生が、そうやって煙草を吸ったんですか」
「単なる質問ですから、深く考えないで下さい。僕とあなたは、お付き合いはまだ月曜からの
三日間と短いけど、随分沢山の話をしてきたつもりでいます。ただレストランで席が隣になっただけの
女の人よりは縁も情も深いでしょう。その上で、相手の態度に何も問題がないと考えられますか」
「それは……」
「身内や友達のことになると、相手にも悪いところを見つけたくなるでしょう」
「そう、かもしれません」
「今の話はたとえ話です。確かに、煙草が苦手な人間が身を守るには、
吸っている人間に頼んでやめてもらうよりほかに方法がない。
それなのに相手を無視した方に非があります」
「どうしたらよかったんでしょうか」
「簡単ですよ。レストランの側で、きちんと喫煙席と禁煙席を作るんです」
先生が柔らかな声で答えた。
「分かり合えない者同士は、無理に一緒にいる必要はない。関わらず、住み分ける以外に
道はありません。正しいとか正しくないというのは、それを話すのが人間同士である以上、
簡単に変化していくんです。これが何という正解はない。けれど、そんな中でどうすることが
自分の心に一番恥じないのか、何を一番いいと信じるのか。
それだけはきちんと胸においておく必要があります」(P.324)
人には力がある。そう語りながら、辻村さんの作品には毅然とした厳しさが同居する。
たとえば、とあるシーンで主人公が聞かされる、
「正しさ」や「弱さ」を武器にして加害者に転じることや、「正しい」ということそのものの不確定さ。
この辺りは、匿名・実名を問わず、討論なんかを見ていても良く分かる。
誰かが正しさを主張する討論は大抵平行線で、特に感情が加わると収拾がつかなくなる。
正しくある、ということには、どうにも錯誤を覚えやすい。
実際には見えているものすら別々であるはずなのに、
それを同じで絶対なんだと思い込んでしまうあの感覚は、怒りの振り幅の意味で特に怖い。
人の目は結局それくらいに狭くて、過去から現在までの心に振り回されがちだ。
この人物が過剰なくらいに主人公の復讐を「私怨」であると説き伏せている理由は、
確信しての正義は悪と変わらないように思っているからなのかもしれない。
この人の意見をはじめとした、作中で幾つか提示される「悪意」へのスタンス。
それにはどれも納得がいく。
まるで方向性の違う答えすべてに納得感を抱くことが出来るのは、
その選択がどれも、何かを諦めて何かを守る答えであり、見栄や誤魔化しのない答えだから。
その一点だけを見ても、正しさというものがどれだけ曖昧な天秤なのかということが分かる。
特に「人を傷つける怖さ」や命の重さに悩み続けていた主人公の選択は、
自分の身に置き換えてみるとあんまりにも鮮烈な真っ直ぐさで、読み返して少し涙が出た。
何かに懸命であることそのものは、一つの答えにはなる。
ただそれは、自分にとっての裏付けや他人との対等さにはなっても、
万全の軽量器にはならないのだということは忘れないように居たい。
そう考えた時、真っ先に思い浮かんだのは、自分を疑い続けるのはとてもしんどいということだった。
でも、しんどいからこそ意味があることなのかもしれないと、そんなふうにも思う。
この作家さんの鋭すぎる舌鋒には、ポジティブとネガティブ、
両方のメッセージをいつも受け取る。主にポジティブな方を書き込み。
「『お前は今日、絶対に市川雄太に声の力を使う。
そうしなければ、ずぅっと一生、今のままの嫌な気持ち』」
ぼくのメジャースプーン / 辻村深月
ひとまず軽い近況。
四月末までが第一デッド、五月中が最終デッドゾーンな感じです。
特に四月はハーデストモードなデンジャラスっぷり。
この苦しみは全部自分の未熟さでしかないので、せめて根性くらいは身につけたいな。
終わったらやりたいことも読みたい本も沢山あるしなー。大神とP3Pもやりたい。
あと会計ソフト、と自己メモ。こんな時に日記をつける逃避。
近日のところで読んだのは、野島信司の「スヌスムムリクの恋人」。
帰省していた妹が先に読んで、面白かった!としきりに言うので一晩で読了。
ただ彼女と私の感覚は大分違っていたらしく、面白いと思う部分は上手く語り合えませんでした。
仲はいいけど、物の見方がプラスとマイナスくらい違う姉妹なので。
妹は役者を見る派、私はシナリオを見る派。
話自体は、最初に想像したストーリー展開と違ってちょっとビックリした。
でもところどころがもう納得の野島信司。
愛の無い女性関係の多さとか、演説シーンの下りとか凄くそれらしい。
野島作品の恋愛劇は、恋でも愛でもなく『出遭い』ってイメージがあるのだけど、
この恋愛模様は本当にそんな形が突き詰まった印象のお話。
特に、ラストの告白シーンの流れがそのあたり物凄く象徴してるように思った。
「人は前向きに生きた方がいいと言うね。クヨクヨしないでって」
「だけど、僕はそうは思わない」
「僕は一見ネガティブに聞こえるSには、人間の良心が集約されてると感じるんだ」
「いつかは全てが許される時が来る。その時、彼方に大きな虹がかかる」
(P334.抜粋)
内罰、っていうのは難しい。
自分の内側を見る行為は、目の前に居る他人を見ないという行為でもあって、
その間にまた人を傷つける罪を犯しかねない進行形の矛盾がある。
やり方や加減を間違えると他人を生贄にさえしかねないのが自罰。
主人公の「八方美人」な性格は、相手に譲れる余地が多かったからだと話中で言われていたけど、
そのへんを掘り進めると、譲れないモラルは実は相当大きく心を占めてたんじゃないかと思った。
内罰意識と傷を愛する気持ちの兼ね合いって、決定的な罪を犯さないこと、
誰にも踏み込まないことに帰着すると思うんだよね。
しかし、響く言葉を沢山持ってるこの人はやっぱり上手いよなあと思う。発想がほんと詩人的。
この人の話に内罰的な作品が多いのはこの辺の価値観から来てるのかな、とも感じた。
色んな同性間の友情や異性間の友情、生き方の鬩ぎ合いのほうが主題らしくて、
個人的には恋愛劇よりも友情劇のほうが興味深かった。
ハッキリした友情物!ではなくて、個々の色が雑多にマーブルしてるような話。
性差は埋めようがないものだけど、こう見事に男女の違いをスッパリ書かれてしまうと、
男だから女だからと言わずお互いのメンタルくらいはちゃんと理解したくなるな。
とは言うものの、最後の告白シーンの一連の締め方だけは潔くて好き。
人に勧めるにはかなり悩むけど、なんだかんだで楽しめた本だった。
「僕も幸せになりたい」
「私も幸せになりたい」
スヌスムムリクの恋人/野島信司
なんとも不思議な読後感。
こんなにスッキリした終わり方で良いんだろうかというくらい、
嫌な後味が残らない物語だった。
サバイバーの物語としては少し異質な印象。だけど納得が来る。
辛い話なのにそれでも読んで良かったと思わされるバランス感覚に何より感心した。
話の中で語られている「神の視点」にまでは至らないけれど、
断罪しきれない、正しさという武器を外に向けて持つことが出来ない少女の視点は、
結局のところそれに近い中立性を持たされてしまうような気がする。
冒頭の予告で痛みが緩和されていた点もあるとはいえ、
特定の人物に対する憎悪が胸に残らなかったのは、
何よりも主人公たちの視点に影響されてのことだと感じたので。
父親の敵にならない自分の味方という矛盾した存在を、
自分と同じ世界にいる子供に求めるしかなかった裏腹さだとか、
当たり前に貰えない気持ちをあえて欲しがる代償行動の心理だとか。
言葉の端々には嘘に包んだSOSが滲んでいるし、
本人たちがそれに気付いていないからこそ、その気持ちには生々しさと悲しさがある。
誰の目に視点を置くかという一点で、この話の印象はかなり様変わりするんじゃないかな。
200Pの短編が、こんなにしっかり気持ちに根付くとは思わなかった。
「ほんとはね、ほんとの友達を探しにきたの。大事な友達。ぼくのためにすげーがんばってくれるいい感じの友達。そいつがみつからないと、海の藻屑になっちゃうの」
「好きって、絶望だよね」
砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない/桜庭一樹
Powered by "Samurai Factory"