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長続きを目指す感想だとかの書き込み日記です。20080219に作成。
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Posted by - 2024.05.14,Tue
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Posted by セージ - 2010.05.21,Fri

辻村深月さんの本は良いな。
一度ページが走り出すと止まらない勢いと読み易さがある。
そんな訳で、前々から積読状態だった文庫本を一気に読了。
読むのは二作目なんだけど、辻村さんは本当に勇ましい作家さんだなあ。
人が目を背けたくなる部分を主題に持ってきて、
安易に答えを出させないまま、とことんそれに向き合わせる。
しかもその中心に立っているのが小さな子ども〈主人公)なんだから、
いやがおうにも目を背けられない、って言うね……。

けして狙った訳ではなかったんだけど、前に続いてまたも罪と罰という言葉がちらつく話。
ただ、こちらの主題はもっと大枠なで、復讐や贖罪も一つの答えとして含めつつ、
世の中に確かに存在する「悪意」に自分ならどう向き合うか、という感じだろうか。 
自分の友人を傷つけ、それでも世間のつくりからは罰されない、そして反省を抱くことも無い人物。
もし、そう出来る力を自分だけが持っているなら、どんな罰を与えるのか?
そんなよくある仮定を、この主人公の場合は現実の選択肢として与えられることになる。
誤魔化さずに悪意を見詰めること。
そして、自分自身の答えを見つけ出すこと。
全編を通して語られていたのは、主にこの二つのテーマだったように思う。

「ぼくには、本当に『声』の力があるんですか」(P.325)

主人公の声には、人を動かす特別な力がある。
たった一回限りではあるものの、自分の言葉で絶対に人を動かすことが出来る能力。
もしこの主人公と同じ、自分の言葉で何かを成すという力を私たちが持っていたとしたら。
私たちもやっぱり主人公と同じように言葉に迷い、したい事を成すために知恵を働かせるはずだ。
ただし「言葉が力を持つ」という主人公の力にも、大きな制約がある。
主人公の「声」は、人に何でも言うことを聞かせる万能の力ではなく、
相手にとって意味のある指示でなければ不発に終わってしまうという条件がついている。
他人の価値観を汲まなければ、力を持っていても目的を遂げることは出来ない。
これは結局のところ、現実に使う言葉や行動も変わらない。
人が動かされる場合、それは言葉そのものにではなく、その中に価値観に触れる何かがあるからだ。

言葉が届かないことは多々ある。
それでも、当たり前に吐き出された言葉が何度も主人公を傷付けたり、または救ったように、
現実の中でも言葉が人に強く寄り添うことがある。
この作家さんはおそらく、人の言葉には力があるものだと信じている。
だからこそ「自分に力があるなら」と錯覚した上ででも考えてみて欲しい、
いつかぶつかるかもしれない悪意や理不尽に対する言葉を研いでおいて欲しい、と、
この話自体が、そんな仕掛け方で導かれている物語のような気がしてならない。
住み分けの意識とも少し違う、なんとなく諦念に近いような心地と言うべきか、
いつからか、私自身、自分の言葉を何処かで小石のように思ってしまっていた節がある。
受け取られなくて当たり前、届くのは受け取ってくれる好意というラインがあるからだ、と。
そんなラインが敷かれる筈もない悪意に対してどう向き合えば良いのか。
けして縁遠い問題ではない筈なのに、想像するだけで気鬱になる。
私と同様ではないにしても、そんな消却的選択に逃げ込みたくなってしまう人間にとっては、
単純に目の前の物に向き合う子どもの目線も(主人公の視点)、
自分はそこで何をしたいのかという立場の選択も(大人たちの例示)、
現実には存在しない特別な力に隠された、「言葉」の持つ力も。
それがけして特別な何かではないということと、自分自身、
あるいは自分の大事なものの前にやってくるかもしれない物への沿線を丁寧に敷いて、
嫌なものを見る力を少しだけ分け与えてくれる。
主人公の能力は、必ず言葉が人に届くという「もしも」の約束に過ぎない。
言葉には力がある。主人公と主人公を介した読者には、悪意と対抗するための力がある。
そんな前提の一方で、この力は、それでもなお動かせない世界があることを描く装置にもなっている。


「その常識の無い煙草の吸い方をしていたのが僕。感情的にそれを罵る女の人、という図です。
 あなたの立場は、僕と一緒にお店に行ったもう一人の女の子だと考えてください」
「先生が、そうやって煙草を吸ったんですか」
「単なる質問ですから、深く考えないで下さい。僕とあなたは、お付き合いはまだ月曜からの
 三日間と短いけど、随分沢山の話をしてきたつもりでいます。ただレストランで席が隣になっただけの
 女の人よりは縁も情も深いでしょう。その上で、相手の態度に何も問題がないと考えられますか」
「それは……」
「身内や友達のことになると、相手にも悪いところを見つけたくなるでしょう」
「そう、かもしれません」
「今の話はたとえ話です。確かに、煙草が苦手な人間が身を守るには、
 吸っている人間に頼んでやめてもらうよりほかに方法がない。
 それなのに相手を無視した方に非があります」
「どうしたらよかったんでしょうか」
「簡単ですよ。レストランの側で、きちんと喫煙席と禁煙席を作るんです」
 先生が柔らかな声で答えた。
「分かり合えない者同士は、無理に一緒にいる必要はない。関わらず、住み分ける以外に
 道はありません。正しいとか正しくないというのは、それを話すのが人間同士である以上、
 簡単に変化していくんです。これが何という正解はない。けれど、そんな中でどうすることが
 自分の心に一番恥じないのか、何を一番いいと信じるのか。
 それだけはきちんと胸においておく必要があります」(P.324)

人には力がある。そう語りながら、辻村さんの作品には毅然とした厳しさが同居する。
たとえば、とあるシーンで主人公が聞かされる、
「正しさ」や「弱さ」を武器にして加害者に転じることや、「正しい」ということそのものの不確定さ。
この辺りは、匿名・実名を問わず、討論なんかを見ていても良く分かる。
誰かが正しさを主張する討論は大抵平行線で、特に感情が加わると収拾がつかなくなる。
正しくある、ということには、どうにも錯誤を覚えやすい。
実際には見えているものすら別々であるはずなのに、
それを同じで絶対なんだと思い込んでしまうあの感覚は、怒りの振り幅の意味で特に怖い。
人の目は結局それくらいに狭くて、過去から現在までの心に振り回されがちだ。
この人物が過剰なくらいに主人公の復讐を「私怨」であると説き伏せている理由は、
確信しての正義は悪と変わらないように思っているからなのかもしれない。
この人の意見をはじめとした、作中で幾つか提示される「悪意」へのスタンス。
それにはどれも納得がいく。
まるで方向性の違う答えすべてに納得感を抱くことが出来るのは、
その選択がどれも、何かを諦めて何かを守る答えであり、見栄や誤魔化しのない答えだから。
その一点だけを見ても、正しさというものがどれだけ曖昧な天秤なのかということが分かる。
特に「人を傷つける怖さ」や命の重さに悩み続けていた主人公の選択は、
自分の身に置き換えてみるとあんまりにも鮮烈な真っ直ぐさで、読み返して少し涙が出た。

何かに懸命であることそのものは、一つの答えにはなる。
ただそれは、自分にとっての裏付けや他人との対等さにはなっても、
万全の軽量器にはならないのだということは忘れないように居たい。
そう考えた時、真っ先に思い浮かんだのは、自分を疑い続けるのはとてもしんどいということだった。
でも、しんどいからこそ意味があることなのかもしれないと、そんなふうにも思う。

この作家さんの鋭すぎる舌鋒には、ポジティブとネガティブ、
両方のメッセージをいつも受け取る。主にポジティブな方を書き込み。

「『お前は今日、絶対に市川雄太に声の力を使う。
 そうしなければ、ずぅっと一生、今のままの嫌な気持ち』」

ぼくのメジャースプーン / 辻村深月
 

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